2013年08月25日
源為朝伝説(3)=加計呂麻島
「保元の乱」で破れた源為朝は喜界島から琉球へ行ったと説明しましたが、その間に加計呂麻島でも生活したようです。
瀬戸内町では下記のように説明しています。
今から約800年前の永萬二年、為朝が喜界の小野津港に上陸して、一軒家を訪れると美しい娘が機織りをして居った処、為朝の顔を見ると
「貴方は八郎殿ではないか」と話しかけてきたので、為朝はびっくりした。
この島で自分を知っている者がいる筈はないと問い返した処、昨夜の夢で貴方が尋ねてくることを知らされたと申し、それが縁となり夫婦の契りを結び一子を儲けた。
為朝は喜界に居っては十分な勢力を造ることができないと感じ、小野津に神社を造って喜界を離れ大島北部に上陸したと伝えられ、これが喜界の小野津神社の由来とされています。
その後為朝は本島を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂麻島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。
鎮西八郎為朝の子・実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられている石が二基、当神社に安置されているのでありますが、此の石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
瀬戸内町

加計呂麻島は「男はつらいよ」第48作「寅次郎紅の花」のロケも行われた島でもあります。

去年の写真ですが、加計呂麻島全体のリュウキュウ松が立ち枯れになっていました。

下の写真は最近の名瀬長浜の松枯れです。


加計呂麻の松は既に表皮も落ち、骨だけとなっています。 本島の松は葉が落ち続けている現状です。
松枯れは奄美全体というより北海道、青森以外の都府県でもおきているようです。
瀬戸内町では下記のように説明しています。
今から約800年前の永萬二年、為朝が喜界の小野津港に上陸して、一軒家を訪れると美しい娘が機織りをして居った処、為朝の顔を見ると
「貴方は八郎殿ではないか」と話しかけてきたので、為朝はびっくりした。
この島で自分を知っている者がいる筈はないと問い返した処、昨夜の夢で貴方が尋ねてくることを知らされたと申し、それが縁となり夫婦の契りを結び一子を儲けた。
為朝は喜界に居っては十分な勢力を造ることができないと感じ、小野津に神社を造って喜界を離れ大島北部に上陸したと伝えられ、これが喜界の小野津神社の由来とされています。
その後為朝は本島を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂麻島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。
鎮西八郎為朝の子・実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられている石が二基、当神社に安置されているのでありますが、此の石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
瀬戸内町

加計呂麻島は「男はつらいよ」第48作「寅次郎紅の花」のロケも行われた島でもあります。

去年の写真ですが、加計呂麻島全体のリュウキュウ松が立ち枯れになっていました。

下の写真は最近の名瀬長浜の松枯れです。


加計呂麻の松は既に表皮も落ち、骨だけとなっています。 本島の松は葉が落ち続けている現状です。
松枯れは奄美全体というより北海道、青森以外の都府県でもおきているようです。
Posted by yamachan at 16:03
│伝説